VRサイクリング 奥州街道12日目。「戸(へ)」の数を増やしながら(何のこっちゃ)岩手県から青森県へ進むの巻。奥中山高原麓の町一戸宿をスタートし、軽く一山越えて開けた市街地二戸宿、一山越えてついでに県境を越えて青森県に入り古い商家が街道一本道に沿って長く続く三戸宿、大きく一山越えて五戸宿、さらに一山越えて忽然と現れる大きな都市十和田市街を通り抜けて今回の終点ここもレトロな街並みの七戸宿まで70kmの超長丁場の行程。岩手県北部から青森県にかけてN戸(Nは1桁の整数)という地名が多く存在するのは知っていたがメジャーな八戸以外はどこに位置するのか昇順に並んでいるのか何故N戸という地名なのか知らなかった。調べてみると、この地域は昔稲作ができずその代わりに良質な馬を育てて供給することで生計を立てていたということだ。そしてその馬の放牧と管理の地区に「戸」という地区単位を用いたことが地名の元になっているようだ。さらに血生臭い歴史もある。室町時代に甲州の南部地区からこの地域に移り住んで南部氏を名乗る一族が、分家毎に分散して統治するようになり、そして一族内で争いが始まる。三戸城をベースとする三戸南部氏の派閥と九戸城をベースとする九戸南部氏の派閥。結果として豊臣秀吉の天下統一に協力姿勢を取り、さらに関ヶ原で東軍についた三戸南部氏が生き残り、江戸時代には南部藩の大名としてより盛岡城をベースに広い地域を統治するようになった。街道はこれら分家毎の拠点となった二戸宿(九戸城)、三戸宿(三戸城)、五戸宿、七戸宿(七戸城)をつないでゆくが、峠で隔てられて中心となる城跡があり古い街並みのある似たような町々であった。こうした歴史を知ると非常に興味深い。もう1つ今回のルートで興味深かったのは、十和田市という都市だ。鉄道も通っていないし、周辺は荒野で囲まれた広い土地に、忽然と現れるきれいに区画整理されて広く展開する都市。実は江戸時代末期に南部藩の藩士の家系三代をかけて、三本木原という広大な荒地を開発するプロジェクトのドラマが展開したのだった。まず奥入瀬川から上水を引いて新田開発を行うと共に、ここに碁盤の目の道の大都市を構築して二次三次産業も誘致するというこの時代にして驚くべき構想を練り上げそれを実現した。万延元年の都市計画!その結果が十和田市というわけであった。さて次回は早くも青森に到着予定。